夜の小川町はしんと静まり返っていた。
乗降する人も少ない。
東上はひとりぽつんとベンチに座っている。
やがて遅れていた列車がやって来る。
東上はぴょこんと立ち上がった。
夜の中からグレーの長身が現れる。
正確には、鼠色の制服を着た、背の高い男だ。
「遅い!」
「やぁ、ごめんごめん」
顔には丸いサングラス。
右手を上げながら近付いてくる。
「何でこんな遅いんだよ!」
「うん、そうだね」
否定も言い訳もしない。
東上にはとうに連絡が入っているから。
車輌故障で遅延すると。
ほとんどいつも遅れる時は、中央や青梅のもらい遅延ばかりだった。
本人が理由の遅延や運休はほとんどない。
だから、今回のは珍しいといえた。
「何やってんだよ!」
「ごめんねぇ」
弁解のひとつもせず、長身の腰を折って謝罪を口にする。
いつもの間延びした口調。
それはいつも以上に呑気に聞こえて。
だから、東上は故障を気遣う言葉が出てくる隙を失った。
「今度!」
そんな言葉まで張り上げるように告げる。
「越生と梨もぎに行くから!」
「へぇ、いいねぇ」
のんびりと返すから、東上は少し焦った。
「それで!八高も一緒に行かないかって」
他人事でないのだと。
丸眼鏡で隠れている目はきっと大仰に瞠っている。
「食べ放題なんだ。だから、越生とお昼は抜いていこうって」
「あはは。どんだけ食べる気なんだい」
「馬鹿にしてんのかよ」
「まさか」
八高は、でも、と続けた。
「梨ばっかりじゃ飽きるでしょ。おにぎり作ってくよ」
「え?」
東上は瞬きを繰り返した。
「おにぎり?八高が作るの?」
「うん。味の保証はないよ」
「おにぎりにそんなのいるかよ」
そう言いながら、頬が緩むのを感じる。
「じゃあ、越生にも言ってくる!」
ひらりと身を翻して行こうとすれば。
とうじょう、と呼ぶ声がする。
「何?」
「今日は待たせちゃってごめんね」
「そんなこと」
唇を尖らせる。
最後にそんなこと言うなんて卑怯だ。
「もうすんなよ」
待っているのは好きじゃない。
悪い想像ばかりが巡るから。
「うん。もうしない」
絶対、なんてない世の中で。
その男はそんな風に言う。
けど、無理、とか、嘘、とか言えなくて。
「わかった」
とだけ言って頷いた。
「じゃあ」
「またね」
今度こそ走り出す。
ふいと振り向けば、グレーの人影が手を振る。
何だか気恥ずかしくなって、東上は速度を緩めた。
風は涼しいのに、頬が熱い。
もう一度振り返る。
まだ手を振っている。
「ばぁか」
東上は小声で言って、それからは振り向かなかった。
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