忘れ物





とある朝、高崎は会社ビルのエントランスではた、と足を止めた。
「……あれ?」
スーツの内ポケットに入れた手が空振りする。
「ん?んん?」
上着のボタンを全部開けて叩いてみても、何かが入っているそぶりはない。
「おっかしいなぁ……」
今度は鞄を持ち上げ、手を突っ込んだ。
やはり目指すものは見あたらない。
「やっべ……」
ジャケットからズボンまで、あらゆるポケットを叩いたり、手を突っ込んだりする。
「んー……」
記憶を辿るが、「それ」を最後に使って以来、何処にやったやら、ちっとも思い出せない。
まずい、とさすがに焦り出す。
これでは職場に入れない。それはまあ、電話で同僚の誰かを呼べば入れないことはない。
しかし、勤怠を「それ」で管理している為、フロアに入れたところで欠勤扱いになってしまう。 よもや紛失したとなれば、始末書ものだ。
「マジで何処やったんだ、俺」
昨日の帰りは確かにあった。それから、いつものように上着の内ポケットにしまった筈だが、それがあやふやだった。
「マジやばいって……!」
再びスーツのポケットをあちこち叩き出す。
「たーかーさーきー」
「うおっ!」
いきなり背後からがばっと抱き締められ、反射的に声が上がる。
「何してるのかな〜?」
「うっ、宇都宮!ばっ、馬鹿!」
腕を振り解き、誰かに見られてはいないかと周囲を見渡す。
そこは宇都宮も計算ずくのようで、エントランスには二人以外は誰もいなかった。
「そんなこと言っていいのかい、高崎」
マジシャンのようにひらりと閃かせた手には何かひっかかっている。
長いストラップの先についているものを手に取れば。
「これっ、俺の!」
高崎の探し物――顔写真入りの社員証――だった。
「折角持ってきてあげたのに、その態度はなんだい」
「どっ、何処に!?」
「ソファの上に落ちてたよ。上着を脱いだ時に落ちたんじゃない?」
言われて、昨夜の記憶が蘇る。
「脱いだんじゃなくて、脱がせた、んだろっ!」
小声にすることは忘れない。
「そうとも言うね」
しれっと言いのける宇都宮。
「まあ、いいや。助かったぜ」
社員証を受け取ろうとすると、宇都宮の手がひらりと一閃。
高崎の手から社員証を遠ざける。
「何すんだよ!」
「お礼は?」
「は?……ありがとな」
「そうじゃないでしょ」
宇都宮は長い人差し指で自分の唇を触ってみせた。
「高崎から、して」
「ばっ、こんなところでできるか!」
「今なら誰もいないよ」
「そういう問題じゃねえっ!」
朝から顔を真っ赤にして怒鳴る高崎。
「早くしないと遅刻扱いになっちゃうよ」
「うぅ……」
高崎は赤い顔で宇都宮を睨んだが、宇都宮は平然としたものだった。
「くそっ!」
高崎は社員証を掲げた手首を掴むと、素早く顔を寄せた。
蝶が止まるよりかすかに。
唇を掠めた感触。
「さ、先に行くからなっ!」
顔を赤くしたままの高崎を見送って、宇都宮は楽しげに笑った。





高崎は社員証忘れそうだよね。ということで。
上司はこれぐらいの謝礼では満足しません。
というのはまた別の話。



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